ベルビル・ランデブー
- Nezumi Fukuda
- 2015年12月19日
- 読了時間: 10分
すごい映画があった。
「ベルビル・ランデブー」
自転車のアニメと言えばそうだし、自転車は関係ないと言えばそうでもあるし、でも、やっぱり自転車のアニメだ。
本当に素晴らしい作品なので、機会があれば是非見て欲しい。
金属の呼吸の話でも。
ベルビル・ランデブーの中で、序盤におばあちゃんが自転車のホイールに音叉を付けて何かしているシーンがある。
これは何をしているのかと言うと、自転車のホイールのゆがみを直しているのだ。
自転車のホイールっていうのは、リムという外のわっかと、中心の回転軸であるハブ、そして、その二つをつなぐスポークという細い針金みたいな部品の三つで構成されている。
なぜ、そういう構造なのかというと、まず、自転車のホイールの大径化のためだ。
単純に言えば、大径化することで高速化を実現する。
しかし、単に大径化するわけにはいかない
。例えば、単純に大径化するだけの話なら、何か金属でも木でも良いので、円盤を手に入れて来ると良い。それをホイールの代わりに使えば良い。大きい円盤をはめれば良いだけの話だ。
しかし、単なる円盤を使うと三つの弊害が出る。まず重くなる。次に横風の影響を受ける。次に路面の凹凸がダイレクトに乗り手に伝わってしまう。
この三つの問題を解決するのが、ハブ、リム、スポークという三つの部品によるホイールの構成だ。
さらに、空気を入れるタイヤ、これは自動車でもなんでも採用されているので、ほぼすべての車輪と共通である。
自転車のホイールがゆがむのは、それぞれ三つの部品の異常に原因がある。まず、外の輪っかであるリム、これの変形。それから、ハブの欠損。ハブが壊れれば当然軸が狂ってしまうので、まっすぐに回らない。
しかし、それらの理由は少ない。
最も多い理由というのがスポークのテンションバランスの問題だ。
金属は伸び縮みする。
温度と外力によって、伸び縮みする。
スポークは、映画、ベルビル・ランデブーの時代背景の中では32本使われる場合が多い。最近では前18、後ろ20と、随分少なくなってもいるが。
簡単に言うと、スポーク本数というのは、多いほうがホイールのゆがみ(僕ら自転車をいじる人間の間ではホイールの振れなんて呼ぶんだけど)は少なく抑えられる。
仮に一本のスポークが伸び縮みしても、その隣のスポークが支えてくれるわけだ。
でも、本数を少なくした方が軽いし、空気抵抗の軽減にも貢献してくれる。
ツール・ド・フランス(以下、略してツール)という大会は世界で最も大きく、最も素晴らしく、最も崇められた大会であり続けている。7月にフランスを21日かけて一周するレースだ。それぞれの日ごとにレースがあり、合算したタイムで優勝を競う。
昔は、その年のツールが終わったらすぐに、メカニックたちは来年のツールのためのホイールを組み始めたという。
百セットほど組む。
ハブ、リム、スポークをばらばらの状態からくみ上げていく。
実際、百本組むくらいのことは一か月もかからない。1日3本くらいは、僕でも組める。当時の自転車選手たちは裕福ではなく、別の仕事をしていたとしても、慣れればホイール組みというのは30分も掛からない。
問題はスポークの呼吸である。
新品の金属というのは、本当によく伸び縮みする。温度と外力。そのため、組んだホイールは実際に使われる。或いは冬を越す。少しずつ狂う度に修正しないといけない。100セットのホイールの内、21日のレースに使えるホイールというのは決して多くない。
修正するたびに金属は疲労を重ねて行く。人間のようにはいかない。金属の疲労というのは、限界が決まっている。疲労限界というものだ。その限界を超えると破断したりする。
選ばれたホイール、それは元々のバラバラの状態でのハブ、スポーク、リムの生産過程での精度、またメカニックの最初に組んだ時の集中力、様々な要素で、当たり外れが出て来る。
21日のレースを戦いきれるだけの良いホイールを持つ。これで初めてツールの土俵に立てる。
そんなわけで、ホイール、特にスポークの呼吸の難しさというわけだ。
はて、この映画、ベルビル・ランデブーでの音叉のシーンだ。
実際、今、ホイールの振れ取り、つまり歪み修正をする時にはそんなやり方はしない。
振れ取り台、Trueing Standなる台にホイールを乗せて、ゆがんでいるところを探し、スポークテンショナーでスポークの張力を測って均等にしていく。
ただ、理屈的には同じだ。
映画では、老婆が、エッフェル塔の上にスポークを乗せ、回して目視で歪みを探す、これが今でいう振れ取り台の上での作業だ。次に目で見えないテンション、張力の違いを探すのだが、この時に映画の中では音叉を使う。
弦楽器の音を合わせる時に音叉というのは必須だ。今は電気的に合わせられるチューナーこそあるが、楽器というのはハーモニーこそ大事だ。一本の弦の音を定めてから、後の弦の音を相対的に決定していく。最後に演奏する楽曲で最もきれいに響かせたいコードを鳴らして好みに合うように微調整する。そうすることで、ハーモニーを整える。電気的に合わせるチューナーの場合、それぞれの弦を各自に電気的につまり電気という絶対的なものを基準に合わせていく。確かに音は合うのだが、ハーモニーとして合わせることは結局人間の耳じゃないと出来ない。感性じゃないと出来ない。
自転車のホイールのスポークの張力を合わせる時にテンションを使うというのは、このテンションアジャストの作業である。
(まあ、実際にはテンションを合わせると今度は振れが出るということはどうしても起きる。なぜって分からないけれど、何かしらのずれ、単にスポークの長さが微妙に違う場合とか、それぞれのスポークの張力に対しての強さなんかのズレ、同じ力で引っ張ってもたくさん伸びてしまうスポークなんかもいるからだろうか。それで、テンションというのは実際にはいくらかのバラツキが出る。音叉の共鳴で合わせるにはちょっと無理がある程度の許容誤差がある。
ちなみにスポークテンションを上げるメリットはここにある。ホイール全体の剛性を上げるというのもあるが、ハイテンションにするほど、このテンションのバラツキを抑えやすい。もちろん、スポークの寿命は縮むが)
この映画が非常に素晴らしいというのは、まず僕はそのシーンに感動した。
金属の呼吸を一コマで見事に表現している。
音叉では実際には出来ない。
これはクラシックギターを趣味で弾いているから分かるけれど、共鳴というのは本当にほんの少しの張力差があるだけで上手くいかない。楽器くらいでしか使えないし、逆に言えば、楽器ではそのレベルでの調弦をしないと不思議なまでに人間の耳は音楽に気持ち悪さを感じる。
それでも、このワンシーンは本当に素晴らしいと思う。
誇張であるにせよ、自転車のホイールの繊細さ、そして、老婆の子供に対する愛の細やかさを一撃で表現し、またこの映画における音楽の重要さも示している。
まあ、非常に分かりにくい表現ではあるが。
自転車に本当に詳しい人間が見てもボロが出ない演出だ。
子の苦手とする坂の練習のために老婆は小径の三輪車で後ろについていく。笛を一定のリズムで吹き続ける。自転車においてリズムは重要だ、心臓のスポーツだから。苛酷な練習から帰って、子が突っ伏す。膨れ上がった筋肉を掃除機で吸い、マッサージをする。これは自転車のトレーニングの中でとても大事なのだ。トレーニング後に硬くなった筋肉をほぐし、血流をよくすることで、酷使した筋肉から出た老廃物を流し出し、栄養と酸素を筋肉に流し込む。この映画がすごいのはマッサージする箇所も心得ている。ふくらはぎ、腿はもちろんだが、背筋をきちんとしている。自転車は背筋のスポーツだ。
そして、食事を摂る。
その後、ローラー台に乗る。ローラー台はレコードプレイヤーとつながっていて、一定の速さでまわさないと曲調がおかしくなるし、速すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。筋肉を低強度で動かすことで、さっきのマッサージでほぐした血管にゆるやかに程よい血流が流れる。筋肉は疲労させない程度の強度。老廃物が流し出され、栄養と酸素が筋肉にめぐらされる。心地よい音楽の中で子は眠りにつく。
まあ、今日話した辺りは映画のほんの序盤のワンシーンなのだが。
とにかくディテールに凝っている。
その後も様々なところでディテールへのこだわりは見られる。自転車のことだけじゃない。
ただ、この最初のワンシーンが全ての骨を作り込んでいる。
アニメなので、現実にはありえない動きをキャラクターたちがする。それでも、まったく不自然な感じはしない。
また、後半のシーンで、映写機に映されたコースの前で、自転車選手がローラー台に乗せられれ賭けレースをする。
現代へのアンチテーゼである。
賭けにすれば、確かに儲かる、活性化する。スポーツとして人気も出やすいかもしれない。自転車ロードレースがスポーツ観戦の対象になりにくいのは、競技のフィールドが広すぎて観客が観づらいというところでもある。
だから、合理的に映写機の前に選手を並べて、レースさせる。
確かに、スポーツビジネスの波に乗れば、自転車はもっと広く普及するだろう。
だけれど、それで本当に良いのか。
今現在、自転車レースを面白くするために、GPSなどの機材の導入、ペダルへのパワーを数値化する機械など、多くの新しいものが現れている。チームオーダーは勝つために、スポンサーの意向に合うように、お金になるように。
だけど、自転車なんて乗り物は本当にそんな風になるべきなんだろうか。
効率化の話だけしてしまえば、移動手段として言えば、自動車、或いは電動自転車なんかでも良いじゃないか。
スポーツ振興の点だけでいえば、短距離の競輪だけ、トラック競技だけで良いじゃないか。
人々がロードレースに求めるものって、きっとお金じゃない。
全力で人間が、人間の力だけで大地に立ち向かう姿に感動するのだろう。
フランス全土を超人的な選手たちが駆け抜けて行く。
それは、日本でいえば村の屈強な男たちがメインストリートを馬鹿みたいに重い神輿をかついで叫びながら歩いていく、天や大地への感謝を叫びながら、人々が立ち向かう姿。人間の勝利を人間が喜ぶ。
そういう点でいえば、自転車ロードレースがいつまでもビジネスに乗れるスポーツ要素が薄いっていうのも仕方ないことだろう。
もちろん、自転車がもっと広まれば良いなと僕は思っている。
そんながちがちの選手たちだけの乗り物としてでなく、全ての人々が乗り、美しい大地、風を感じ、素晴らしい時間を過ごせればと思う。
これまで自転車の素晴らしさを知らなかった人たちが、自転車に触れてくれれば素晴らしいと思う。
でも、そのために本来の大事なこと、核心にある要素が損なわれるなら、本末転倒じゃないかなと思う。
安易な例えになってしまうけれど。
人々を幸福にするために作られた原子力発電だって、もしも人々を不幸にするものだと分かったのであれば、そのやり方はやめねばならないんじゃないか、と。
人々の幸福のために進歩した社会が、その維持のために人々の苦しみをあまりに多く要求するようであれば、そういう社会は間違っているんじゃないか。
大学に行って、一流企業に行って、良い暮らしをすることこそ幸福、それも一つの正しい形かもしれないけれど、全体的に人々が不幸になりつつある現状があるとするならば、正面から問題提起をして立ち向かわねばならないんじゃないか。
まあ、センシティブな問題を最後に放り投げたけれど。
たかが自転車、されど自転車。
変に立派にし過ぎちゃいけないだろうし、変に効率良くし過ぎてもいけないんじゃないかなと思う。もちろん、懐古主義の中でつぶれていってもいけないけれど。
多くのことがそういう問題に突き当たっている時代。前進すれば解決すると盲目的に言えなくなっている時代。
自転車が素敵なのは、どんなに時代が変わって、鉄からアルミ、カーボンと材質が変わってもそういう大事なことをいつまでも失っていないことなんじゃないかって僕は思ってる。
まあ、そんなこんな。
ベルビルランデブー
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